最新説教

安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(出エ20:8)

日頃、仕事をしていると、時間ができたら、観たい映画がある、読みたい本がある、行きたい所がある、と心待ちに休日を待ちます。あるいはせっかくの休みだから、思いっきり寝たい、体を休めたいと思うのも、多忙な現代人には当然のことかもしれません。リタイアして、年から年中、休日だという環境の方もいらっしゃるでしょうが、掃除・洗濯・炊事などの家事には休みの日などありません。

ところが、十戒の第三戒は、安息日を覚えて、聖なる日とせよ、と命じます。安息日は、やりたいこと・休むこと・日常の生活ではなく、聖なる日としなさいと命じます。せっかく待ちに待った休日を、なんということでしょうか。
それどころではありません。御言葉には、この戒めを破った場合は、「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」(出エ31:14)ときわめて恐ろしい罰則がついています。事実、御言葉の中では、安息日に日常生活で欠かせない薪、これを拾った者が、石で撃ち殺されます(民数記15:32-36)。第一戒と第二戒にも、「咎を子孫に及ばす」、「罰する」という刑罰がついていますが、殺す・民から断ち切られるという、恐ろしく、具体的な罰則がついているのは第三戒だけです。

本日は、安息日を「覚える」「聖とする」とは何か、そして罰則がつく理由、安息日のあるべき過ごし方を学びます。

イスラエル民族が命じられたことは、「一週間に一度、一日仕事をしてはならない」ということでした。
「しかし七日目は、あなたの神、エホバの安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・・・・
それはエホバが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」 (出エ20:10,11) 

仕事をしてはならない理由を字義通りに読むと、主が六日間で世界を創造され、七日目に休まれたからこれを記念せよ、という理由です。字義をたとえて会社でいうなら創立記念日のようなもので、従業員にとっては、有給で休みが増えるなら、どんな名目であってもラッキーというのが正直な感想でしょう。会社にとっては創業がいかに大変なことで、素晴らしいことであったかを記念したいわけですが、会社ができている前提で雇用された従業員にとっては、あまり関係なく、仕事を免除されるだけの日となってしまいます。

それどころか、明治以前の日本は、盆と正月以外は休みはなく、週一日の休みは、昔の日本人にとっては夢というより、怠惰と考えられていたはずです。今でも農家や畜産家のように、農作物や牛や豚など相手が休んでくれない職業では、誰れかがその面倒を見なければなりません。

休息だけのことを考えるなら、効率の面から考えたほうが良く、記憶の詰め込みも一晩寝かせれば、睡眠中に整理されますし、筋力増強も休息日がなければ、疲労が蓄積してゆくだけで効果はありません。とすれば、これは休息のことを言っているのではないことがわかります。

第三戒の主題は、第四戒の「父母を敬え」と同じように、十戒中、二つだけ禁止ではなく、「これを聖なる日とせよ」という、肯定の戒めです(黙示録解説965-2参照)。肯定の「聖なる日とする」ために、「仕事をしてはならない」という禁止が伴います。

今までの十戒の学びで、第一戒は「諸真理は、主以外の源泉から決して考えてはならず」(天界の秘義8867)、特に「自分と世間を愛してはならない」(黙示録解説950-3)、そして第二戒、「神の御名とは、・・・神的真理であり、我々にとっては御言葉で・・・最も神聖なもので」(黙示録解説960-14)あることを学んできました。第三戒である、
この戒めにも、キリスト教徒として重要な意味が含まれているはずです。

「この戒めの霊的意義は、主のみ力による人の矯正と、再生です。六日間の労働とは、肉とその欲にたいする戦いを意味し、同時に、自分の内にある地獄から来ている悪と偽りに対抗する戦いです。ところが第七日目は、人と主の結合と、その結果、再生することを意味しています。・・・人の矯正と再生がこの戒めの霊的意義によって意味されます、なぜならそれらは主の労苦と地獄との闘い、そしてその勝利、その後の休息の類推であるからです」。(真キリ302)
また、「天的意義は、主との結合その結果、地獄から守られる平安です。安息日は休息を意味しますが、最高の意義では平安であるからです。」(真キリ303)。

安息日は、休息の日のことではなく、矯正と再生、そして主との結合であり、その結果の主の休息と平和です。私たちの休息ではありません。内意はわかりましたが、これだけでは、人は何をすればよいのか明らかではありません。出エジプト記31章の本日の学びから、さらに深く掘り下げます。

「・・・・あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別するエホバであることを、あなたがたが知るためのものなのである。」(出エ31:13)
ここでいう「私の安息」とは、「神性そのものが主の人間性と結合したことであり、主の神的人間と天界の結合、そして天界と教会の結合であり、教会にいる者の善と真理の結合」です(天界の秘義10356)。これを「守る」とは、「敬けんに、そして絶えず思いのうちに保ち」、「考え、それが表象することを思い、敬けんにそれらを礼拝する」、こと。すなわち、「主のこと、主の神的人間と神性そのものの結合、主の神的人間と天界、天界と教会、教会の人間の内の善と真理の結合を神聖にそして絶えず考える」ことです(〃)。

日曜だけ教会に行って説教を聞いて、その後世間話をするというだけではありません。絶えず、主イエス・キリストが人間としてお生まれになり、試練を通して地獄を征服し、天界に秩序を戻し、この世に教会を建設し、ご自身はついにはエホバとなられたということを、心から大切にして神聖に思い、絶えず思い続け、考え続けよという戒めです。そのため、この戒めの冒頭は、禁止ではなく、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エ20:8)という肯定的な命令となっています。

そして「これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし」というのは、「教会に属しその中にいる者は、主イエス・キリストと、神的なものが主の中にある事を認めなければならない、かつ、主と天界の結合を認め、教会の人間と天界の結合を認め、そしてより一般的に自分の内での善と真理の結合を認めなければなりません。なぜならこの結合がその人を教会とするからです」(天界の秘義10357)。

神様とイエス様は別人格と考え、洗礼によって、原罪およびそれまでに犯したすべての自分の罪がゆるされると考える旧教会と、主イエス・キリストは天地の神であり、自分の内で行いによって善と真理を結びつけてゆかねばならない新教会とは、スタートにおいて全く異なります。「主の人間の内に、神性の結合を認めることが教会と、教会でないものを区別する印です」(天界の秘義10372)。新教会の洗礼は、主イエス・キリストの内に、神性を認めることで行われ、ここからスタートします。しかし神格を三分割した教義は、教会のスタートラインにさえ至ることがありません。

「これを汚す者は必ず殺されなければならない。」とは、「主によってではなく、自分自身とその愛によって導かれる者」(天界の秘義10362)は、天界から分離され、霊的に死ぬことを意味します(〃10363)。
自分の何かにこだわり、自分の愛のおもむくまま進めば、その人間は自己愛そのものとなり、主への愛・隣人への愛と真逆の道を歩みます。隣人愛と主への愛が天界を貫く基本原理であり、自己愛と世間愛は、自分を何よりも愛し、世の財貨を求める愛であり、地獄を貫く基本原理です。自己愛に導かれる人間は、天界から絶たれ、霊的な死を迎えます。主が殺されるわけではありません。主から来る生命、隣人への愛を基調とする生命を拒むことで、必然的に霊的な死を迎えます。
「安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」についても、ほぼ同じ意味です。

「六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、エホバの聖なる全き休みの安息日である。」この六日間は「、天界的結婚に先立つ状態で、天界的結婚に備え」、そして七日目の安息日は、「目的である善の状態、すなわち人が教会そのものとなって天界に入る時」です(天界の秘義10366,10367)。
天界的結婚とは、人に関して言えば、人の中で善と真理が結合するときです。
人間の内の善と真理に限っていうなら、第一戒で、主からくる真理以外のものを禁じ、第二戒で、その真理の源泉である御言葉をおろそかにすることを禁じ、そして第三戒で、その真理は、善と結合することが目的であると明かされます。

善を目的にしない真理は、真理ではありません。著作でよく使われる「記憶知」、これは書庫や博物館の倉庫に埋もれてしまった単なる知識です。それは相応の知識が邪な心によって魔法とされてしまったように、邪心によって偽りと化する恐れもあります。
善を目的としなければ、真理は真理でなくなります。なぜなら真理の生命は善であり、善の中にこそ主が住まわれています。また真理がない善は、形がなく宙に漂う不定形のくらげのようなもので、善は真理によって形を与えられ、存在するようになります。善と真理の結婚こそ、すべての喜びの源泉、生きがいの源、生きる価値です。善と真理の結婚こそ、天界であり、人間の再生であり、あなたの目標です。そこには表現できない平安と、存在の奥底からわき起こる喜びが待っています。

第三戒にあっては、この善と真理の結婚、すべての労苦・地獄との闘いから解き放たれる安息日を「覚え」て、「聖なる日」とせよとあります。「覚えて」とは、常に思考のうちになければならない(天界の秘義8884)ことをいいます。そしてこれを能動的に「聖なる」ものとして、尊い目標として、この目標に向かって進みます。真理から善に進み、善にたどり着き、善と真理が結びつくまで歩みを止めません。これが第三戒が能動的な命令である理由です。

真理から善に進み、自らが善と真理を一体とした教会になる。これをより具体的にいえば、隣人を愛せよという真理を学び、常に心の内において、その真理によって導かれ、機会を見つけては隣人に役立つ業をなし、隣人が喜ぶことで、あなた自身が満足して喜ぶということです。常に真理を学び、善に行うよう自らを刺激し、励まします。自分でできなければ、教会の礼拝など、同じ志を持つ人間の集まりに行って、御言葉の真理や御言葉から抽出された教えに耳を傾け、それを具体化する道を見いだします。志の高い人間に刺激を受けて、あるいは自らの善への志を語り、真理の実現、善が目的であることを確認して、再び隣人への役立ちに向けて歩み始めます。これで、「安息日を覚える」ことができます。

自然的な意味での安息日は、「その日、主が神殿や会堂で教えられた」ように、学び善への志を高める日であり、「床を担いで歩く」(ヨハネ5-8新共同訳)日です。「床」は教義であり、「歩く」は生きることです。ベッドを担いで歩く、とは奇妙な表現ですが、教義を担いで歩く、すなわち教義を実践します(黙示録解説163-7, 天界の秘義10360-8)。仁愛が実践できた日、これが安息日です。主に導かれ、御言葉に導かれ、実践し人に役立つことで人が喜び、それを見てあなたが喜び満足し、一切自分勝手な思いによって導かれることがなければ、そこに地獄のつけいる隙はありません。そしてこれが絶えず行われるなら、あなたは天界、主の中、善と真理の結合・結婚の中にいます。さらに、隣人や礼拝をはじめとした主への奉仕が、労苦でなくなった時、これが主の与えられる「喜びの日」である安息日です。

「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、エホバの聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたはエホバをあなたの喜びとしよう」(イザヤ書58:13-14)。
アーメン

出エ31:12-18
エホバはモーセに告げて仰せられた。
「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別するエホバであることを、あなたがたが知るためのものなのである。
これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。
六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、エホバの聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それはエホバが六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。  

マタ12:1-8       
そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
人の子は安息日の主です。」

真のキリスト教301 アルカナ訳
第三戒 「安息日を聖とすることを覚えておくこと。六日間は働いて、自分のわざを全部なしとげなさい。ただし、第七日目は、あなたの神エホバの日である」。

これが第三の戒めであることは、出エジプト記(20・8~10)と申命記(5・12、13)を参照してください。これは、自然的意味つまり文字上の意味では、六日間は人間のためであり、労働のためにありますが、七日目は主のために存在し、主によって人間が休息するためにあるということです。安息日 Sabbathum とは、その原語では「安息 quies」を意味します。イスラエルの子らにとって、安息日とは、主の表象であったことから、至聖 sanctitas sanctitatum を表わしていました。それは、主が地獄に対抗して六日間労苦と戦いをしのばれ、七日目にはそれに勝利して、休まれたことからきます。その日は、主のあがないの全体をしめくくる表象でした。だからその日は、聖そのものだったわけです。ところが、主がこの世に来られて、主を表象する必要もなくなったので、その日が、神について教えまなぶ日になりました。しかもその日は、労働を休む日、救いと〈永遠のいのち〉について、思いめぐらす日、隣人への愛を行う日です。その日が神のことがらについての教えの日になったことは、次のことからも明らかです。
「その日、主は神殿や会堂で教えられた」(マルコ6・2、ルカ4・16、31、32、13・10)。
「癒された人にむかって、『床をとって歩きなさい』と言われました。また、弟子たちが安息日に麦の穂をとって食べることくらい許されていると、パリサイ人にむかって言われた」(マタイ12・1~9、マルコ2・23~28、ルカ6・1~6、ヨハネ5・9~19)。
霊的意味の上で、以上のことは、それぞれ教義について教わることを意味します。その日がまた、隣人への愛の日であることは、主が安息日になさったこと、教えられたことからも明らかです。(マタイ12・10~14、マルコ3・1~9、ルカ6・6~12、13・10~18、14・1~7、ヨハネ5・9~19、7・22、23、9・14、16)。
以上のことからも、主がどうして、ご自分が「安息日の主である」(マタイ12・8、マルコ2・28、ルカ6・5)と言われたか分かるでしょう。そう言われたわけは、安息日こそは、ご自分を表象する日だったからです。



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